私の戦争体験


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疎開前

私は親の里である土岐郡妻木町で生まれた。(1938/05/06)
出生後すぐ、名古屋市東区高丘町に移り住んだ。

三河地震(1945年1月13日午前3時38分23秒、
三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震)を、防空頭巾をかぶって
家族で天窓の下で経験した、こんな深夜じゃなかったと思う。余震の時だったんだろうね。
東南海地震(昭和19年、1944年)かもしれない。
防空警報で床下の防空壕に避難してたのも思い出す。

道路へだてた南には高岳小学校、西側には神社があった、と思うけど神社は今小学校の隣にある。
その小学校には入学できなかった。土岐郡妻木町旭日町に疎開し、そこで妻木尋常小学校に入学した。

疎開後

土岐郡妻木町旭日町に疎開し、そこで妻木尋常小学校に入学した。(昭和20年4月(1945/4月))

上郷に爆弾投下(昭和20年5月15日(1945/5/15))
妻木川、上流の裏山川、城山の中腹に径10mくらいの穴ができていた。
爆弾の破片が飛び散っていた、拾ってきて、数年家にあった。

この年に広島に原爆が投下された、先日('16/2/21)河合先生を囲む同窓会で、
広島で体験された先生の話を聞く機会があった。昭和20年8月6日(1945年8月6日8時15分)のことです。
悲惨な状況はテレビなどで放送されている通りです。

玉音放送

昭和20年8月15日(1945年8月15日正午)最初の夏休み、出校日だった、
先生の放送があるよという伝えで、栄町のたばこ店のラジオの前まで走っていった。
厳かな声が聞こえたけど内容はよくわからなかった。戦争が終わったということは感じた。
進駐軍が小学校に来て軍需物質を燃やした。どこにあったか、
大変な量でした、爆弾もこれが田舎にあることを知って落としたのかな?

終戦の後

その後カスリーン台風 昭和22年(1947年) 9月14日〜9月15日の時かな、
妻木川が大増水で深夜轟音で大きな岩が流れる音が一晩中続いた。
橋が流され、川底に堆積していた砂が一気に流され川が変貌していた。
このご砂防が沢山行われ砂の流失が止まってしまった。
川は元に戻ることはなく、伊勢湾の砂浜が侵食されてしまった。

終戦前後には食べるものもなく、母の着物と交換に米を手に入れるため4,5Kmもある坂道を、
着物をもって、上がって鶴里まで行き、帰りはどれだけの米が手に入ったんだろう、下り道だけど帰ってきた。

父が採ってきたシキビを借りたリヤカーで4Kmくらい先の下石町まで売りにいったこともある、
たぶん盆の前のことだろう。子供ながらにいいシキビだと思った。どれだけ売れたかは覚えがない。

お向さんの工場で木炭車の薪を作っていた、その手伝いをそこの息子にさせられて、左手親指を
手斧でたたき切ってしまった、爪が割れて生えてくるようになった、最近になって割れが無くなった。
今は筋目が少しあるくらいまで回復してる。中指の鉛筆の芯とともに思い出の傷だね。

そんな時代陶器産業は順調になり始めた、私は小学5年生頃から、窯出しにアルバイトで学費稼ぎができた。
妻木中学に入るころには毎週日曜日にアルバイトをし、いつか誘われて、毎日下校後に
カップの手のボロ欠きなどもした。多治見高校2年くらいまで続いたかな。